2012年4月29日日曜日

花のフェスタ2012バザー出店4/28.29

花のフェスタ2012にバザー出店しました。天候に恵まれました。参加者は鼻を赤くしています。
お隣はシティライト・異人館の丘です。今回は福祉バザーグループは、食べ物系が多く、バザー物品系は少数派でした。定番そば焼き・たこ焼きが¥200で、統一されていて、買い易かったです。
「就労継続支援B型誕生日ありがとう」は「いちいちバザール」の東北商品も販売しました。うちのオリジナル商品もバージョンアップして、まずまずの売上でした。

2012年4月26日木曜日

今日の誕生日は・・・

『誕生日ありがとう』はバタバタとしております(>_<)

なぜなら、4月28日(土)29日(日)に
神戸市西区の総合運動公園で行われる
『花のフェスタ神戸』への出店に向け、
オリジナルグッズの作成をメンバー・スタッフ共に
頑張っているからです。

今回のテーマが『花』ということで、
オリジナルグッズも『花』の切手を使った物を
メインに作ってます。

もし、興味のある方は
『花のフェスタ神戸』に…
『就労継続支援B型誕生日ありがとう』のブースへ
是非お立ち寄りくださいませ♪

お待ちしております(^^)ノ

byくつしたくろねこ



2012年4月24日火曜日

山吹が咲いています

「就労継続支援B型誕生日ありがとう」のある西多聞通1丁目の国道28号線(神戸市中央区―徳島市)、428号線(神戸市中央区―三木市吉川IC)の十字路を1ブロック北へ行くと、角に、「山吹」が咲いています。
山吹には、一重咲きと八重咲きがあります。八重は実を結びません。学名Kerria japonicaに「日本」の意があります。英名もJapanese kerriaです。日本・中国が原産です。バラ科ヤマブキ属。枝は株元から伸ばし、地下茎が伸び芽を出す。


 『後拾遺和歌集』兼明親王歌七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励んだ故事があります。豊島区神田川に架かる面影橋たもとに「山吹の里」の碑があるそうです。新宿区には「山吹町」があり、東京都立で山吹高校があります。


  熟成古酒「山吹」は秋田県大仙市(旧大曲市)の酒です。
 花言葉は「金運・気品・崇高・待ちかねる」です。
  やまぶき色は日本の伝統色のひとつです。こどものころ「やまぶ黄」色と堅く信じていました。
黄色の花からとられた色名は山吹くらいしかありません。
ほろほろと山吹ちるか滝の音(芭蕉) 
<BYはせつかべ>
 

NPO法人日本ユニバーサルツーリズム推進ネットワーク総会に参加


「就労継続支援B型誕生日ありがとう」を運営する「NPO法人 誕生日ありがとう運動本部」が正会員である、「日本ユニバーサルツーリズム推進ネットワーク」の総会に出ました。事務局を「神戸ユニバーサルツーリズムセンター」を運営する「NPO法人ウィズアス」が担っています。ウィズアスは、障がい者の旅を作り出すことをはじめ、就労継続支援B型で神戸ユニバーサルライフ情報誌「びと」を発行しています。また「どこでも車いす」で車いすの無料貸し出しも行っています。


障害か障がいか 表記で迷い 新聞記事

4月15日毎日新聞記事より
(前略)大分県人権教育研究協議会は広報誌「じんけん」(A4判10ページ)を年8回、約1万5000部発行している。 昨年5月の総会で「県は06年『障がい』に変更したが、『障』にもマイナスイメージがある」と「障害」から「『しょうがい』」に改めると表明。ところが担当者が失念し、第74号(昨年7月発行)の7カ所で「障害」を使った。読者の指摘を受け、75号(9月発行)最終ページの全面に経緯や謝罪を掲載した。 (後略)



 「誕生日ありがとう運動」は「障害」表記に反対しています。別の表記を定めようと、啓発を行っています。「障がい者・しょうがいしゃ」は問題定義としてはわかりますが、終着とは考えていません。


 現在、よりよい表記の提案の出現を期待しています。かつて運動では「知力救援者」を示していました。残念ながら定着してません。議論の進化拡大を待ちます。
<byはせつかべ>

2012年4月23日月曜日

福島・宮城2泊3日(16)再び仙台空港~その2



国土地理院のホームページには震災前後の航空写真がUPされています。申請不要の「利用」と判断し転載します。上の2枚は、女川の震災津波後、前です。写真上部左の大きな敷地・建物は女川町立病院です。病院沿いの道路を車で通りました。引き換えし、病院の駐車場から被害を確認しました。


ポピーの花、雛罌粟コクリコ虞美人草


就労継続支援B型誕生日ありがとうの東隣3軒先は、マンション工事を途中でやめた、フェンスで囲まれた土地があります。
  ポピーが咲いています。ポピーの種類を検索すると、この写真は長実雛罌粟(ながみひなげし)です。日本に咲くポピーからはアヘンの成分モルヒネは採れないので栽培できるそうです。
  虞美人草ともいいます。項羽の寵愛を受けた虞妃の墓にヒナゲシが花を咲かしました。なので「虞美人草」とつきました。
若いとき読んだ漱石の作品に『虞美人草』があります。小説の内容とあまり関係のない題名です。
スペインでは「アマポーラ」フランスでは「コクリコ」と呼ばれます。
コクリコの赤はふらんす国旗の赤です。
駿アニメ『コクリコ坂』は横浜がモデル。アグネスは「愛の涙は今日もこぼれそうよ」と歌います。『ひなげしの花』は1972年です。もう40年前の曲でした。
「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す 君も雛罌粟われも雛罌粟」与謝野晶子
 

2012年4月19日木曜日

楠公さんへ、お散歩

「13日の金曜日」の厄落とし?でもないですが、春のポカポカ陽気に誘われて、近くの楠公さんに散歩に出かけました。楠木正成を祭神とします。
 神社HPより「幕末から維新にかけて正成公の御神霊(ごしんれい)を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868年)、明治天皇は正成公の忠義を後世に伝 えるため、神社を創建するようお命じになった。当時のお金で千両という大金を下されました。こうして明治2年(1869年)、御墓所・殉節地を含む 7,232坪(現在7,666坪)を境内地と定められ、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建(そうけん)された」そうです。
就労継続支援B型誕生日ありがとうの郵便番号は「652-0035」、町名は、『西多聞通』です。今の兵庫区が、中央区となる前の生田区と一つの区=湊東(そうとう)区でした。そのときの町名は「多聞通」です。昭和20年戦後、分かれて、生田区域は多聞通、兵庫区域は西が付きました。その北の「橘通・西橘通」「上橘通・西上橘通」も同じ経過です。他に「楠町」もあり、正成縁の町名が付けられました。もともと明治4年鉄道敷設の際に旧・福原町・相生町の住民の移転先として神戸・兵庫間に市街地が造成されました。
多聞は正成の幼名「多聞丸」から。橘は、楠木氏の紋所です。

2012年4月17日火曜日

美味しくて忙しい・・・

今日は1ヶ月に1回の調理実習でした。

今回のメニューは・・・
八宝菜・スコッチエッグ・ごはん・お味噌汁
と相変わらずボリューム満点でした♪

今回は具材を切る行程が多くて
今までの中で慌ただしく
1番時間がかかりましたが、
その分とってもおいしく感じました(^^)

今回のレクリエーションは
いつもとは違って公園で運動!!
今まで室内レクリエーションが多かったので
たまには外で体を動かすのもいいですよね。

後日。。。
筋肉痛にならないかはちょっと不安ですが(^^;

byくつしたくろねこ

2012年4月13日金曜日

誕生日会=4月編~チョコレートフォンデュ

4月12日(木)午後、誕生日会をしました。今回は、チョコレートフォンデュを作って味わいました。
誕生を迎えるのは、メンバーにお一人おられます。チョコを刻んだり、具材を細かく切ったりしました。

2012年4月12日木曜日

福島・宮城2泊3日(15)再び仙台空港~その1

仙台発 ANA17:35 B767-300 で、伊丹まで帰ります。
4時前には空港に着いていました。待合室の椅子に座り、この2泊3日を振り返りました。

就労継続支援B型誕生日ありがとうスタッフの「なぜ、いま東北へ」と投げかけられながらの旅でした。私たちは阪神淡路大震災を経験しています。その犠牲の多さと倒壊した家屋の惨状はよく承知しています。ここへ来ての感慨ですが、凡人には、津波の猛威は現地に立つことの意味は大きいと感じます。この日早朝に見た「女川」の景色が忘れられません。

飛行機に乗るまでに時間があるので、ネットに繋ぎ、検証してみました。
(13)で、訪ねた展望台は正式には「崎山展望公園」とわかりました。
この写真は「女川町の観光」のサイトから引きました。私も現場でこの看板は見ていました。
なんと申しましょうか?って啓発メッセージです。右に見える港の防波堤は津波により、壊されています。
女川湾は水深が深く36mもあります。


以下ネットの情報です。
①第二次世界大戦中には、東北地方太平洋岸の防空・対潜任務のため、横須賀鎮守府隷下の「女川防備隊」が設置され、艦艇が配置された。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日には連合国のイギリス海軍機動部隊所属機による空襲があり、大日本帝国海軍艦艇7隻(海防艦2隻、掃海艇1隻、駆潜艇1隻、特設艦船2隻、小型タンカー1隻)が撃沈された

② イギリス側の損害は空母「フォーミダブル」に所属する戦闘機F4U コルセアおよび戦闘機スーパーマリン・シーファイアの各1機のみで、撃墜されて湾内と隣接する山地に墜落した。このうち、F4Uの操縦士であったロバート・グレイ大尉は、第二次世界大戦最後のカナダ人戦死者であったため、崎山展望台に慰霊碑がある。

慰霊碑は確認していません。ネットでは、倒れた碑の写真があります。

③ ワカメの養殖では日本における発祥地。
④ 女川町域と共に南三陸金華山国定公園に属する地域。
⑤1980年(昭和55年)7月8日:女川原子力発電所、着工。
1984年(昭和59年)6月1日:女川原子力発電所、運転開始。

昭和20年8月6日は広島、9日が長崎に原爆が落とされました。同じ9日に女川湾では、連合国艦載機による日本海軍艦船に攻撃がなされたことに驚きます。「女川防備隊」7隻150余名の戦死者が出ています。カナダ兵までも。女川町の人たちは、艦船と艦載機の死闘を見たのでしょうか?また同日、むつ市・八戸市・釜石市も空襲されています。
原爆を落とす日までも、東北沿岸を空襲する、連合国の戦い方に疑問を持ちます。

女川町は国家プロジェクトに振り回された感があります。








2012年4月11日水曜日

誕生日ありがとうGOODS(2)干支ストラップ

今、バザーでひそかな人気を誇っているのが
この干支ストラップ♪

使用済みの切手を使って
ストラップを作っています。
 
「家族の分の干支のストラップも」と
買われる方も結構いらっしゃいます。

いちいちバザール 4月11日


11日は「いちいちバザール」です。いつものデュオ「サンポルタ広場」が会場です。
地下なので雨天決行です。干支のストラップやカードしおり等をメインに売りました。
みんな急ぎ足で通り過ぎて、思ったようにはなかなか売れませんでしたが、立ち止まってくださるお客さんもいました。メンバーで法被を着て売り子をしました。商品は一つ一つ手作りなので、売れるとやはりうれしいものです。もっといろんなグッズを作って売り上げを増やしたいです。神戸に来た際は、ぜひ一度お立ち寄りください。満面の笑顔でお待ちしております。
 





福島・宮城2泊3日(14)女川町立病院駐車場

また女川へ引き換えしました。女川町立病院の駐車場に車を留めました。
写真の高台が駐車場です。建物が町立病院です。その1Fまで海水は侵しました。標高32mです。海岸から200m。
犠牲者に花が手向けられていました。朝の7時過ぎでも多くの方が駐車場に来ておられました。
町立病院は、福祉関係の窓口が臨時で設けられています。それとわかる福祉車両がたくさん駐っています。見渡す限り人家はありません。高台の仮設に移られています。行政だけがあるのは奇異な感じです。
いま通過した道を駐車場から見下ろしています。代行バスが走っています。4階建てビルが横転しています。津波はこの方角に押し寄せてきたのでしょう。道端の水たまりは、地盤沈下のせいです。 女川原発から6.3km、福島第1原発から114km。

福島・宮城2泊3日(13)女川

東北最後の日・・・3月26日(月)は朝6時台に女川街道を東進して、女川町を巡りました。牡鹿半島の根元の街です。万石浦から尾根を越すと、女川が見えてきました。震災津波直後の映像ではよく眼にしていた町並みです。町といっても民家は流されほとんどありません。

 

女川港は漁具が廃棄物として山積みされています。
 女川街区を抜けて、次の尾根に取り付きました。ブルーライン名付けられた道路は片側通行であったり、道が海側にくずれていたり、山の石が転がっていたりしています。ほとんどが工事中です。通行車両も工事関係ばかりです。がけ崩れで立ち入り禁止の展望台から女川町が一望できました。足元は大きな亀裂が走っています。
  展望台の先から、女川原発の煙突が見えます。写真ではわかりづらいです。牡鹿半島の東側を見ています。海に落ちる尾根の山並みの奥に、天気予報で、出てくる「金華山」があります。
朝日が海に輝いています。平穏な海に涙します。
女川原発から、5.1kmの隔たりです。 福島第1原発から120.0km、標高64mです。


2012年4月10日火曜日

誕生日ありがとうGOODS(1)切手シート「古切手コレクションセット」

新しく加わる「誕生日ありがとうGOODS」を、紹介していきます。
就労継続支援B型誕生日ありがとうのメンバー・スタッフ・法人ボランティアの協力で、GOODSが新しくなっています。
  以前から、ボランティアの手で作られてきた「古切手コレクションセット」を、就労継続支援B型誕生日ありがとうのメンバーがデコレーションを施しました。
<byはせつかべ>

予告 花のフェスタこうべ2012 4/28・29

4月28(土)・29日(日、祝)はバザー出店します。「花のフェスタこうべ2012」です。総合運動公園です。「福祉のお店(バザー)」のコーナーです。
就労継続支援B型誕生日ありがとうのメンバー・スタッフ、法人のボランティアが力を合わせて、Goodsづくりに取り組んでいます。ここでもたくさん売れればいいのですが。
<byはせつかべ>

福島・宮城2泊3日(12) 石巻のチーム神戸を励ます

石巻へ向かいました。ここには「チーム神戸」が常駐して、震災支援を行っています。午後5時着と予定を知らせていました。実際は7時過ぎになりました。この晩は、ボランティアが30名も来ていて、できれば、夕食は済ませて着るようにとのことでした。
 「チーム神戸」は、ボランティアグループすたあと長田が災害地支援を行う際に、団体・個人・企業等の枠を越え、多くの市民がより効果的に被災地支援を行うために協働する、ユニット名称です。
 播州作用町の災害支援でつながった人たちが、来られていました。
 歯科医院の跡を使えるようにしています。整地までは住民の拠点となっています。 
 テレビでも幾度となく取り上げられている、活動です。住民自治へと移行させていく支援にとりくんでいます。
一晩泊りました。画像は移転直後の歯科医院内部の画像です。「チーム神戸ブログ」から引きました。
 ここで聞いた話「すぐ北の湊小学校へ避難する途中、女川街道(国道398号)の歩道橋の上にいたので、津波を避けられた方がいた。すぐ横の電柱にしがみついた方も人も助かりました。その横を「助けて!」と言いながら流される人がいた。引き波で海へ。どうすることもできなかった」

 石巻市港町のチーム神戸の拠点は、標高3m、海岸から1300M、福島第1原発から126.1km、ここは女川原発から16.4kmです。

玉津むつみの家 「お茶の友」せんべい

玉津むつみの家」(通所授産施設=運営「新緑福祉会」)の玉子煎餅「お茶の友せんべい」を、「就労継続支援B型誕生日ありがとう」の店頭で販ぐことになりました。¥200です。柚木所長が納めに来られました。柚木さんには、ちゅうおう障害者地域生活支援センター長時代にとてもお世話になっております。たくさん売れるといいですね。<byはせつかべ>

2012年4月5日木曜日

花見 王子公園へ

4月5日(木)は「就労継続支援B型誕生日ありがとう」の花見です。相談して王子公園に行くことにしました。11時車組と地下鉄・バス組に分かれて出発しました。駐車場はすでにほとんどいっぱいでした。弁当、シートを先に降ろし、バス組を待ちました。
  桜は五分咲きです。こども連れの家族の多さに、今夜から3日間の夜桜の誘惑と闘いながら、弁当を食べる場所獲りに喘ぎました。
春が盛りになりました。
みんなで出かけるのも善し、動物と戯れるのも善し。

福島・宮城2泊3日(11)再び虹の園


四時過ぎに、虹の園に戻りました。話題の石窯ピザを試食させて頂きました。「薪を焚いた石窯で焼く本格的なイタリアンピザ、エスプレッソコーヒー、そして、焼きたてのパンを食べていただきながら、地域の方々の憩いの場、交流の場としてご利用頂ければと思います」とHPに書かれています。「角田の新鮮野菜をふんだんに使用」とあります。
角田市の知識は全くありませんでした。
54年5月 宇宙開発事業団角田ロケット開発室スタート
2年7月 H2ロケット実物大模型が完成
18年 小惑星「イトカワ」の地名に「角田」と命名
ロケットに縁の深い街だったのですね。



下の写真奥の白シャツの方が焼いておられます。また「ぱぴハウス2号店」で被災して的確な避難指示引率された職員です。左理事長、中イタリポン担当の職員、右神戸から行った東北支援メンバー

2012年4月4日水曜日

福島・宮城2泊3日(10)ぱぴハウス2号店

臥牛三敬会の震災前の店「ぱぴハウス2号店」にも行きました。
グーグルとぱぴハウス2号店

〒989-2111 宮城県亘理郡山元町坂元浜谷地15−1
0223-38-1701


ちゃんと出てきます。ストリートビューは被災後の画像になっています。
これも伺った話です。理事長が、地震後すぐに「つつみ屋山下駅前店」からこの店へ、心配して巡られたとか。被害があまりなくて、虹の園へすぐに引き返されました。津波はその10分後に来ました。この店の利用者と職員はすぐ裏の高台へ避難しました。
一夜をここで過ごして、福島県へ出て、小学校へ移動しました。理事長こそ、津波に襲われているのではないかと心配していたそうです。双方とも無事にまみえることができました。

避難した高台とその高台から見た「ぱぴハウス2号店」の跡地です。隣はサーファーの店だったそうです。一夜をここで過ごす恐怖と孤独は計り知れません。
音楽家たちが、ステージと音響を整えて、いちでもコンサートができるようにしていたとか。
文化的な香りのするピザのお店だったのですね。
海抜6m、海岸から20m、津波は200mを侵しています。福島第1原発から53kmです。
<すべて写真は臥牛三敬会の提供です>

福島・宮城2泊3日(9)ぱぴハウスのテントの帰還

臥牛三敬会の理事長が「これは、今日来てよかった」と述懐されていました。
この写真(震災前のぱぴハウス2号店=臥牛三敬会提供)の分かどうかわかりませんが、店の柿色のロゴが描かれた「テント?」は、津波で行方不明になっていました。私たちが案内されて店の前で降りると、床面の真ん中に、このテントが畳んで置かれていました。拡げてみるとはっきりとロゴが読めます。誰が置かれたのか分かりません。この店を知る方が、どこかで見つけられて、わざわざ、ここまで持ってこられたと想像できます。
ほぼ1年後になって帰還したことになります。前回、同じように来訪者を案内した時には、何もなかったとのことです。「いや、見つかってよかった」

Youtubeで、この店を検索すると、

【震災前】相馬港(原釜)からJR坂元駅の車窓(2/2)[HD]   

http://www.youtube.com/watch?v=M4EVHYNRW-A&feature=relmfu

福島県側から北へ走ります。2:19で県境通過します。
5:15から5:26まで「2号店」が写っています。
YOUTUBEを貼り付けていません。コピペしてご覧ください。

福島・宮城2泊3日(8)つつみ屋からぱぴハウス2号店へ

 つつみ屋から線路を海側に渡りました。常磐線です。線路はここに復旧しないそうです。もっと西側に計画されています。山下駅周辺の地元住民はここに敷いてほしいと運動されているとか。どうなりますやら。
 

 
臥牛三敬会が震災まで運営していた3店のうち、「ぱぴハウス2号店」にも案内されました。7.7Km海岸沿いを南に下りました。まわりは何もありません。自動車学校、郵便局、老人ホーム梅香園、小学校等の廃墟が目につくだけです。梅香園では入所者34人、職員20人が亡くなられています。まだ12人が不明のままです。
  下の写真は中浜小学校です。 毎日新聞によると津波は6.2m、海岸から300m、危機管理マニュアルは到達20分以上の場合で、1.6kmさきの中学校まで非難することになっています。警報は10分後に津波が来ます。校長判断で児童59人は屋上に上がったそうです。職員、近所の人もあわせ90人になっています。ぎりぎりで全員助かりました。
 
  瓦礫が山になっています。